第1回|「生きる意味」を問うのは傲慢かもしれない:天動説から地動説へ

「私は何のために生きているのか?」
夜ふと浮かぶこの問いは、真面目な人ほど深く刺さります。
ただ、この問いそのものが、私たちを苦しめている可能性があります。

この連載は、人生に正解の答えを用意する話ではありません。むしろ、問いの向きをひっくり返し、世界の中で起きる出来事にどう応答していくかを扱います。

第1回は、その入口として「生きる意味」を問うとき私たちが陥りがちなお客様目線を外し、天動説から地動説へ視点を移します。

1.【導入】誰もが陥る傲慢な問い

「私はいったい何のために生きているのか?」
「なぜ私がこんな目に遭うのか?」
と、夜ふと考えることはないでしょうか。

多くの自己啓発書やスピリチュアル的な書物では『生きる意味を見つけよう』などとおっしゃいます。
そこへ至ることができればそれは素晴らしいことです。そこに異議をさしはさむことはできません。
しかし、生きる意味を見つけるという表現がどれほど傲慢なものであるか、理解できているでしょうか。

なぜなら、その問いを発している時、あなたは無意識に「世界(神・運命)は、私に満足なサービスを提供すべきだ」という、「お客様気分」に陥っているからです。


2.天動説から地動説へ

ここで、少し残酷な事実を突きつける。

世界はあなたのためにあるのではない。あなたが世界のために(世界の中に)あるのです。

これを精神医学者ヴィクトール・フランクルはこう表現した。

「人間が人生の意味は何ですかと問うてはいけない。人生の方が人間に対して問いを発しているのだ」

夜と霧

そして彼の有名な主張として、世界でただ一つ存在する永遠の物こそ『過去』であり、それを変えることはできないが、それをどう感じるかにこそ自由意志が残されていると述べていました。

その実例として、晩年床に臥すご老人が、「子供も残すこともなかった私の人生はいったいどんな意味があったのか→無意味な人生だった」という旨の話をした際に、フランクルは「子供を残さない人生が無意味だったというのならば、かつて感動した美しい景色も無意味だったというのか、その時の感動そのものすら無意味だったというか」など語り、ご老人の考えを変えたというエピソードが彼の著作に記されています。

このエピソード自体が非常に美しいエピソードですね。
彼の考えには全面的に賛成ですが、疑問を抱かずにはいられません。
このエピソード内で、ご老人は感動に価値を見出すことができていますが、それが誰でも、自分の意志だけで実践できるとは思えません。
つまりご老人はこの時、様々な経験や環境的な要因によって、感動に価値を見出すことができる人間性を養うことができていた。ということです。

そして最も重要な点は偶然によってフランクル氏と出会い、この話をできたということです。この運命的な出会いにも触れないわけにはいきません。

もし、”偶然”の導きによって、ロゴセラピーのこの考え方をフランクル氏から聞くことができていなかったら、このご老人は人生にYESと言えていたのでしょうか。


3.「自由意志」という幻想と、無限の連鎖

フランクル氏の言う「態度価値(どう感じるかは自由)」は、確かに美しいものです。
しかし、現実の私たちはどうでしょうか。
うつ状態の人が、美しい景色を見て「生きているだけで素晴らしい」と思えるでしょうか?
あるいは、極度の空腹やパニックの最中に、人生の意味を哲学的に考えられるでしょうか?

極めて難しいことであるのは言うまでもありません。
なぜなら、私たちの「感情」や「思考」といった出力(アウトプット)は、その瞬間の脳の状態、ホルモンバランス、過去の記憶データといった入力(インプット)によって、自動的に生成されるものだからです。

ここで、ある身近な例を出しましょう。
「今月、お金がない」という悩みがあったとします。
原因を探せば、「昨日、ランチに2000円も使ってしまったからだ」と反省するかもしれません。
世間はここで「次は節約しよう」と精神論で片づけます。
しかし、決定論的に見れば、そこにはもっと深い問いが存在します。

「なぜ、昨日のあなたは2000円も使ってしまったのか?」

ストレスが溜まっていたから? では、なぜストレスが溜まっていた? 上司と合わなかったから。 なぜ合わなかった? あなたが父親に対して抱くコンプレックスが刺激されたから。 なぜコンプレックスがある? 幼少期の家庭環境が……。

こうして「なぜ?」を繰り返していくと、原因はあなたの意志を超え、生まれた環境、遺伝子、さらにはビッグバンの瞬間にまで遡ってしまいます。
つまり、「昨日のランチ」という些細な失敗一つとっても、それは宇宙開闢以来の膨大な因果の連鎖が導き出した、計算不可能な「必然の結果」なのです。

現代的な例で言えば、生成AI(チャットボット)を想像してみてください。

AIがトンチンカンな回答をした時、本気で激怒する人は少ないでしょう。「ああ、指示(プロンプト)が悪かったか、学習データが足りなかったんだな」と構造的に理解するはずです。

実は、人間もこれと全く同じです。 私たちの行動や感情という「出力」は、その時の状況(プロンプト)と、過去の経験や遺伝(学習データ)によって、自動的に生成されています。
データを持っていないAIに完璧な回答が出せないのと同様に、余裕や経験を持たない人間に、完璧な振る舞いを期待するのは土台無理な話なのです。

そう考えれば、自分や他人への「なぜできなかったんだ!」という怒りは、システムの仕組み(仕様)を無視した、理不尽な要求に過ぎないことが分かります。


4.反省の無意味さ

そう考えると、私たちが自分の意志でコントロールできる領域など、実はほとんど残されていないこと気づけるでしょう。
ご老人がフランクル氏に出会い救われたのも、あなたが今この文章を読んでいるのも、すべては計算不可能な因果の流れの中にあります。

これは絶望でしょうか? いいえ、私はこれを「究極の救い」だと考えています。

もし全てが自分の自由意志で決まるなら、失敗の責任はすべてあなた一人にあることになります。それはあまりに過酷です。 しかし、もし「出力」が自動的に決まるものなら、私たちは自分を責める必要がなくなります。

「ああ、今の自分というシステムは、こういう状況で『悲しみ』を出力したんだな」 「ここでは『怒り』というエラーが出たな」

そうやって、自分の人生を少し離れた場所から「観測」すること。 「生きる意味」を探して迷子になるのではなく、ただ次々とやってくる「運命(入力)」に対して、自分がどう反応するかを淡々と見届けること。

それこそが、私たちが世界という巨大な劇場で果たせる、唯一にして最大の役割なのかもしれません。

(第1回 完)


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