第2回|私たちは生まれながら「全能感」を持つ:天動説と玉座

なぜ私たちは「お客様気分」から抜け出せないのか?

前回の記事で、私たちは世界に「意味」を問う側(お客様)ではなく、問われる側(回答者)である——そう述べました。

https://note.com/tack6556/n/n4111f7f5d84e

では、なぜ私たちはこれほどまでに頑なに、「自分が主役だ」「世界は自分の思い通りになるべきだ」と錯覚してしまうのでしょうか。
性格が悪いから? 欲深いから?

私は、ここに意識や性格はあまり関係ないと思っています。
むしろ、人間という生物の構造上、その錯覚を持ってしまうのはほぼ必然です。

言い換えるなら、私たちは生まれながらにして、誰もが一度は「玉座」に座ってしまう。
世界を自分中心に回したくなる——その衝動を、最初から持っているということです。


生物学的な「天動説」——観測点は自分しかない

私たちの世界の中心は、究極的には自分自身の肉体です。
現代人がどれほど世界的視野を手に入れても、ここだけは変わりません。

なぜなら、世界を知覚するためには、基本的に自分の目を使うしかないから。
聴くにも、自分の耳が要る。痛みも快楽も、自分の神経でしか受け取れない。

共感は可能です。他者の立場を想像し、相手の痛みを理解しようとすることもできます。
しかし、それは同一の体験にはなりません。観測点は、あくまで自分の身体に固定されています。

他者の目が捉えた光景を、こちらが直接見ることはできません。
他者の内面へ、直結するポート(接続口)は存在しない。
だから私たちは、どうしても「世界は自分という観測点を中心に回っている」と感じてしまう。

これを心理学や哲学の用語を使わずに言うなら——
人間は生物学的に、完全なる天動説を初期設定として持つ
そう表現できると思います。


全能感の起源——最初の玉座は、乳幼児期に用意される

もう一つ、玉座を強化する要因があります。
それが、乳幼児期の成功体験です。

赤ん坊は泣く。すると、誰かが来て、不快が取り除かれ、空腹が満たされる。
本人にとっては、泣いた(念じた)だけで世界が動く。

もちろん、これは否定されるべきものではありません。
不快があるのに泣かない赤ん坊は、生存に不利です。
だから、全能感そのものを「悪」と断ずるのは筋違いです。

問題は、身体だけが大きくなったあとも、この玉座の感覚が残ること。
社会に出たとき、世界は赤ん坊のようには動きません。

その瞬間、私たちは心のどこかでこう叫ぶことになる。
「なぜだろう。私はうまくやれば世界を動かせるはずだったのに。」


私たちは皆「特別な主人公」のつもりで生きている

子どもの頃はもちろん、大人になってからでさえ、私たちはどこかで
「自分は特別だ」「自分は主人公だ」
そう感じています。

だから、思い通りにならない現実や、自分を正当に評価しない他者にぶつかると、苛立ちが出る。
「なぜ分からないんだ」
「なぜ評価されないんだ」
「なぜ世界は私に優しくないんだ」

この苛立ちは、性格の悪さというより、天動説と玉座の自然な帰結です。
観測点が自分に固定されている以上、世界が自分中心に見えるのは当たり前。
そのうえ、人生の初期に「念じれば世界が動く」という経験まで積んでいる。

そうなれば、この考えから抜け出すのは至難の業でしょう。


「神の座」から引きずり下ろされる瞬間——他者は握れない

しかし現実は、玉座を許しません。
他者や環境は、こちらの望みに完全には従わない。

このとき、人は否応なしに気づかされます。
自分は完璧な神ではなく、ただの不完全な人間だ、と。

この「特別さの喪失」は痛い。
だから多くの人は怒り、他者のせいにして、玉座にしがみつこうとします。
凡人であることを認めるのは、それほどに痛いからです。

ここで役に立つ道具として、アドラー心理学の有名な考え方が出てきます。
いわゆる「課題の分離」。

他者がどう感じるか、どう評価するか、どう動くか。
それは基本的に他者の課題です。
こちらが握れるのは、自分の選択と行動だけ。

この線引きを入れると、玉座の幻想が一つ剥がれます。
「他者をコントロールできない」という現実を、現実として扱えるようになる。

ただし、ここで終わりではありません。


私たちが握れないのは「他者」だけではない——運命も握れない

私たちが握れないものは、他者だけではありません。
運命、偶然、環境——こちらも同じです。

努力しても届かないことがある。
正しくやっても負けることがある。
逆に、雑でもたまたま勝ってしまうこともある。

この事実を直視するのは、かなり痛い。
なぜなら、私たちは「世界は操れない」と分かったあとも、まだどこかで神を続けていたいからです。

世界は無理でも、せめて「自分の人生だけは操れるはずだ」と思いたい。
「努力すれば必ず報われる」というルールを信じたい。

けれど現実は、そうできていません。


神の幻想は二段構え——次に現れるのは「自己責任の玉座」

ここで、私は一つの構造を提示したい。

私たちの神の幻想は二段構えです。

  1. 世界(他者)を支配できる

  2. 世界は無理でも、人生(結果)は支配できる

どちらも、ある程度までは成立します。
しかし、ある地点から先は成立しない。

そして、その「成立しない地点」にぶつかったとき、人は深く絶望する。
「なぜだ。私はここまでやったのに」
「なぜだ。私は間違っていないのに」
「なぜだ。私の人生は私のもののはずなのに」

ここに、お客様気分のしつこさが残ります。
世界は自分のために整備された舞台であるべきだ——その感覚が、最後まで抜けない。

そしてこの段階で、人は別の玉座に座ることがあります。

「完全なる自己責任」という玉座です。

失敗したとき、こう思ってしまう。
「自分が悪かった」「自分が間違えた」「自分が弱かった」「自分が努力不足だった」

もちろん、反省は有意義です。修正点を見つけることは次の一手に繋がる。
しかし、その反省がいつの間にか裁判に変わることがあります。

「お前が悪い」
「お前のせいだ」
「お前は価値がない」

誰が? 自分自身が、自分自身に対して。

神の座を降りたつもりが、今度は別の玉座が出てくる。
この自己裁判こそ、かなり危険な形の支配幻想です。


課題の分離を押し広げる——「握れるもの/握れないもの」を切る

ここで、もう一度「課題の分離」が役に立ちます。
これは本来、他者との関係だけに使う道具ではありません。

より厳密に言えば、これは
「自分が握れるもの」と「握れないもの」を切り分ける技術です。

他者の課題は握れない。
同様に、運命の課題も握れない。

努力も反省も改善も、やればいい。
ただし、それを「結果を必ず支配する儀式」にしてはいけない。

運の割合が大きいゲームを、実力100%のゲームだと思い込む。
だから負けたとき、必要以上に自分を殴ってしまう。

この殴り方こそが、お客様気分の最後の残骸なのではないでしょうか。


回答者に戻る——世界は舞台であり、こちらが書けるのは「回答」だけ

世界は、自分の理想通りに整備された舞台ではありません。
理不尽で、不公平で、偶然だらけの舞台です。

それでも、その舞台に立っていることだけは確かで、私たちが書けるものが一つだけある。
それが「回答」です。

ここで誤解がないように言っておきます。
私は「だから努力するな」と言いたいわけではありません。努力はする。反省もする。改善もする。
ただ、それを神の儀式にしない方がいい、という話です。

努力すれば必ず報われる、という物語に自分を縛り、報われなかったときに自分を罰する。
それは、現実の構造に対して不誠実です。

「世界は操れない」
「人生も完全には支配できない」
この現実を引き受けたとき、ようやく私たちは、お客様から回答者へ戻れるだと思います。


次回予告

次回は、ここをさらに深掘りします。

なぜ人は、運や偶然の比重が大きいと分かっていても、なお「自分」や「他人」を責めてしまうのか。
そして、自由意志を否定するような決定論が、なぜ冷酷ではなく、むしろ慈悲になり得るのか。


(第2回 完)

▼次に読む
– 第3回:(まだ)「決定論と慈悲:なぜ私は他人の失敗に怒りを感じないのか」

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