今回は、私がふだん前提にしている「人の選択」と「過去」の捉え方を、ひとつの考え方として少し真面目に言葉にしてみようと思います。
導入:「あのときの私を責め続けてしまう」という共通体験
失敗をしたことはありますか?
大小を含めるなら、これまでの人生でただの一度たりとも失敗したことがない人は稀だと思います。
自分に余裕がないのに、頼まれたことを断れなかった。
何らかの事情で聞くべきことを聞かずに、誤った結果になった。
人間関係をこじらせてしまった。
一度の失敗で挑戦を諦めた。
あるいは、何度も失敗したのに挑戦を続け、時間を無駄にしてしまった。
こうした場面は、一度きりの出来事として過ぎ去ったように見えて、あとになってから何度も思い出されます。
そしてそのたびに、多くの人は「あのときの自分」に向かって、心の中で小さくダメ出しをします。
「なぜ、あのときあんなふうに振る舞ったのか」
「もっと違う選択ができたはずだ」
ここで、一度立ち止まって考えたいことがあります。
私たちは、進路選択や人間関係での決断を「自分の意志で選んだ」と感じています。
しかし、その「自分の意志」とは、いったい何によって形作られていたのでしょうか。
もちろん、意志は心の中で生じるものです。
けれども、その選択を行った理由をたどっていくと、当時の気持ちの状態、環境、知識など、さまざまな要素が浮かび上がってきます。
さらに、「なぜそのような気持ちになっていたのか」「なぜその知識を得るに至ったのか」と問いを重ねていくと、それらはおびただしい数の過去の出来事――いや、出生にまでさかのぼる出来事の連なりと結びついていると考えることができるでしょう。
地上から見れば小さな植物にすぎないタンポポも、その根は土の下で深く、広く張り巡らされています。
同じように、私たちの一つひとつの選択も、たとえ小さなものであっても、その理由は夥しい過去に裏打ちされていると言えるでしょう。
選択肢そのものは、凄まじいほどの数だけあります。
しかし、たとえ人生をやり直せたとしても、私たちは同じ条件のもとでは同じ選択をするのです。
これこそ運命だと感じませんか。
だとすれば、過去の自分を責め続けることに、どれほど意味があるのでしょうか。
私は、こう考えています。
あのときの私は、あのときの最善でできていた。
この一文を前提に、「後悔」との付き合い方を少しだけ考えてみたいと思います。
「最善」の定義 ─ 私が言いたい“最善”はこういう意味
役割:タイトルのキーワードをちゃんと定義して、誤解を防ぐ
ここで「最善」の意味を整理しておきましょう。
言葉の通りです。そのとき選択しうる最も良いもの・方法ということ。
「完璧」と同じ意味ではありません。
完璧な選択を行うためには昔の思考実験に存在する悪魔のように、万物を知る目とあらゆる事象についての知識が必要です。
今の地点から過去の行動を振り返れば、より良い選択肢というものも見えてきて、なぜあのような愚かな選択をしてしまったのかと悔いてしまうことは珍しいことではありません。
しかし、その選択は個人の力の及ばぬ過去と偶然によって大いに左右されています。
・そのときまでに置かれてきた環境
・それまでに経験してきたすべての出来事
・その環境と経験の積み重ねによって形作られてきた価値観やものの見方
・感覚器官を通して、その場で手に入っていた情報
・家族や友人、先生や上司といった対人関係
これらの条件から“その瞬間の自分にとって”自然に選ばれてしまう行動が「そのときの最善」なのです。
冷静な今の自分から見れば、より良い選択があったようにも思えます。
しかし、それを悔やむ必要はありません。なぜならあの時・あの瞬間の自分にとってはあの行動こそ唯一無二の最適解なのですから。
具体例:一つの失敗を「最善」の視点から見直してみる
ここでは、仮想の人物 Aさんのケースを取り上げてみます。
Aさんは30代の会社員です。
もともとの業務だけでも忙しく、残業続きの毎日を過ごしていました。
そんなときに、上司から新しいプロジェクトをお願いされます。
「Aさんならきっとできると思うんだ。お願いできないかな?」
本当は、心身ともに余裕はありませんでした。
それでもAさんは、ついこう答えてしまいます。
「はい、大丈夫だと思います」
結果として、どちらの仕事も中途半端になり、
プロジェクトは遅れ、周囲にも迷惑をかけてしまいました。
それからしばらく、Aさんはこの出来事を思い出すたびに、自分にこう言います。
「なんであのとき、無理だって言わなかったんだろう」
「『今は難しいです』って一言言えていれば、こんなことにはならなかったのに」
ここで、あのときのAさんを少しだけ分解してみます。
▽当時持っていた情報
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本当の疲れ具合を、本人が正確には把握できていなかった
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スケジュールも「なんとかなるかもしれない」と楽観的に見積もっていた
-
そして何より、「これを断ったらとてつもなく悪いことが起きるのではないか」と不安に感じていた
▽それまでの経験や知識
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仕事の依頼を「断る」という経験がほとんどなかった
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断っても人間関係は壊れない、という成功体験を持っていなかった
-
自分の限界を見積もり、調整を提案するスキルも、まだ十分ではなかった
▽性格や癖
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人の期待を裏切りたくない
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「頼られること」が、自分の価値を感じる大きな源になっている
-
「自分が無理をしたほうがいい」と考えがちな自己犠牲のクセがある
以上、さまざまな条件が積み重なった結果として、
Aさんは「引き受ける」という行動を、そのときの自分なりの最善だと考えたのだと言えます。
その最善の結果として、Aさんに不利益が生じてしまった──それがこの出来事の全体像です。
しかし、他者が結果だけを見てAさんを強く責める正当性がないのはもちろんのこと、
本来は、Aさん本人でさえ「自分を徹底的に責め続ける」ことはできないはずです。
なぜなら、この状況は決して珍しいものではないからです。
ことわざに「疑心暗鬼を生ず」というものがあります。
ここでいう「疑心」とは、まさにAさんが抱いていた
「もし断ったら、とてつもなく悪いことが起きるのではないか?」
という漠然とした不安です。
その疑心が、今ここには存在しておらず、未来に本当に現れるかどうかもわからない「鬼」を、
心の中に暗鬼として生じさせているのです。
古くからこの言葉が使われ続けているということは、
それだけ多くの人が、似たような心の動きを経験してきたということでもあります。
Aさんの状況や判断は、決して特別ではありません。
にもかかわらず、なぜAさんは、
自分だけが世界でいちばん愚かで、罪ある人間のように感じ続けなければならないのでしょうか。
あとになってから、
「あの鬼はただの暗闇が生み出した影にすぎなかった」
「あのときの疑心は必要なかった」
と理性的に分析してみても、
その瞬間のAさんが、その疑心に突き動かされていたという事実は変わりません。
だからこそ、「あのときの私は、あのときの最善でできていた」という前提から、
後悔や落ち込みとの付き合い方を考え直してみる価値があるのではないか──
その話を、次のパートで続けていきたいと思います。
後悔と「落ち込み」を分けて考える
Aさんのケースを見てきましたが、ここで「後悔」という言葉の中身を少しだけ分けてみたいと思います。
私たちが「後悔している」と感じるとき、そこには大きく二つの要素が混ざっています。
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なぜそうなったのかを振り返り、自分のパターンを知ろうとする部分
-
ひたすら自分を責め続ける、感情としての落ち込みの部分
1.には意味があります。
「あのとき、どんな条件がそろっていたのか」「同じ条件がそろったら次はどう振る舞いたいか」を静かに見直すことは、
未来の選択を少しだけ変える材料になります。
一方で2.、つまり「自分はなんて愚かだったんだ」と心の中で自分を被告席に座らせ続けるような落ち込みは、どれだけ続けても状況を変えてはくれません。
ただ体力と時間を削っていくだけの側面も大きいはずです。
ここで、もう一つ大事だと思っている前提があります。
それは、過去はこの世界でも数少ない“永遠であり不変なもの”だという考え方です。
どれほど強く悔やんでも、あのときの出来事そのものは一ミリも動きません。
変えられるのは、いつも「今」と「これから」だけです。
だから、私たちが過去を振り返るのは、過去そのものを塗り替えるためではなく、
似たような状況で、同じ失敗をくり返さないため
未来と現在の選び方を少しずつ変えていくため
だと考えることもできます。
ここで、最初に置いたこの一文を、もう一度だけ思い出してみます。
あのときの私は、あのときの最善でできていた。
この前提に立つなら、
「行動のパターンを振り返り、次にどうしたいかを考える」ことはしてもよい。
けれど、「あのときの自分そのもの」を徹底的に否定するところまで落ち込む必要までは、
本当はないのかもしれません。
後悔を全部捨てるのではなく、
その中から「学びとして必要な部分だけを残す」という選び方があってもいい。
そしてそのうえで、「責任」や「申し訳なさ」をどう扱うか――
その話を、次のパートで少しだけ触れていきます。
責任や申し訳なさを「ゼロにはしない」
ここまで扱ってきたのは、主に自分の中での後悔や自責の話でした。
これは、心の内側での評価や感情という意味で、ひとまず縦軸の話だとします。
一方で、申し訳なさや責任は、もともと対人関係の中で生じるものです。
社会の中で誰かと関わりながら生きている以上、こちらは横軸の話になります。
たとえば、ある依頼を受けて、結果として失敗してしまったとします。
もし依頼者が「全知全能の存在」だったとしたらどうでしょうか。
その存在は、依頼を出した時点で、
-
私がどんな状況にいて
-
どれくらいの知識や経験をもっており
-
どんなクセや限界を抱えているか
上記を、すべて理解しているはずです。
そうであれば、「その条件なら失敗する可能性が高い」ことも分かったうえで依頼しているのだから、
本来そこに強い「申し訳なさ」を感じる必要はあまりありません。
けれど、現実の依頼者はたいていの場合そうではありません。
-
依頼者は「きっと成功してくれるだろう」と期待してお願いした
-
依頼を受けた当初、私も「やれます」と前向きな返事をした
にもかかわらず失敗したのだとすれば、
そこにはやはり、対人関係上の責任が生じます。
謝ること、事情を説明すること、できる範囲で埋め合わせを考えること。
こうした横軸の「申し訳なさ」や「責任感」は、
社会の中で生きていくうえでは、やはり必要なものだと思います。
ここで整理しておきたいのは、
-
縦軸:自分の中での後悔・自責(あのときの自分をどう見るか)
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横軸:他者との関係の中での謝罪・申し訳なさ・責任(どう振る舞うか)
この二つは、本来、別の次元の話だということです。
私が弱めたいと思っているのは、
縦軸で「自分を過剰に責め続けるほう」であって、
横軸の責任や申し訳なさそのものを消してしまうことではありません。
そう考えると、
縦軸の自責はすこし緩めつつ、横軸としての責任は静かに引き受けるというスタンスも、
一つの選び方として許されていいのではないかと思うのです。
まとめ:過去は一度きりであり、すでに最善だった
過去はこの世界でも数少ない『永遠であり、不変なもの』だと考えられます。
どれほど悔やんでも、一度起きた出来事そのものに手を加えることはできません。
にもかかわらず、私たちは「たぶん、あのときにはもっと良い選択肢があったはずだ」と考えてしまうことがあります。
未来の地点から振り返れば、別のルートや別の言い方はいくらでも思いつきます。
しかしそれは、あとから付け加えた物語であって、その瞬間に本当に「選び得た道」ではありません。
あの瞬間の自分には、あの瞬間の情報しかなく、
あの瞬間までに積み重ねた経験と癖しかなく、
あの瞬間の体調と感情しかなかったのです。
その条件の集まりが、その場所でただ一通りの行動を選び出した。
それが「あのときの選択」なのです。
世界を丸ごと巻き戻し、分子の位置から人間関係の機微まで、
すべてを同じ条件で再現したとしても、その場面で選ばれる行動は変わりません。
同じ条件からは、同じ選択しか生まれない。永遠となった過去とは、そういうものです。
だから、過去を振り返る意味は「やり直すこと」にはありません。
変えられないものを変えようとするためではなく、同じ条件がふたたびそろいかけたときに、
どこを少しずらせば別の選択が生まれるのかを知るために振り返る。
過去は、未来と現在を調整するための、ただ一つの材料としてそこに在り続けてくれているのです。
あのときの自分は、あのときの条件のすべてを背負ったうえで、あの行動を選びました。
その選択は、その瞬間においてすでに「その人にとっての最善」でした。
過去をそう位置づけること。それが、現在と未来の選び方を変えるための、ほとんど唯一の出発点であると私は信じています。